父昌一は、1931年(昭和6年)生まれ。
「人に役に立つ人間になれ。人を騙すより、自分が騙されろ。」が信条であった。
地域活動に貢献し、大宮名誉市民栄誉賞を授与された。
父が大学に入ったばかりの頃、その父、好治が39歳で亡くなってしまった。
これを機に、生活のため大学を中退して米屋を始め、自分の母親と兄弟たちを養った。現在も大宮駅前で妹が引き継いでいる。
地域活動がとても大好きで、家を空けることも多かったが、とても子煩悩な父親であった。
自治会・ライオンズ・商工会議所・PTA会長など務めあげ、市民栄誉賞までいたただいた地元の顔役であった。
57才で早くにして他界。お葬式では1000人もの人が参列した。数えきれないほどのお花が並んだその情景は、今でも鮮明に思いだされる。
「お父さんってすごい人だったんだね。」改めて父親の功績を知る。
母徳子は、1935年(昭和10年)生まれ。旧姓:小島。
母は顔が広くて常に家にいなかった父昌一とは反対に、逆にあまり外に出歩かない内向的な性格であった。
家では家事と米屋の仕事をしていること以外は、友達もおらず、遊びにも行かなかった。昌代とは正反対のタイプであったかもしれない。
父昌一を支え、米屋をしっかりと支えていた。昌代の前では顔に出さなかったものの、本当は父のことや米屋のことで大変だったのかもしれない。
母はどんなに忙しくても、昌代達にしっかりとご飯を作って食べさせてくれ、子供4人を立派に育て上げた。その姿は昌代が母になってから、子育てに対する姿勢に影響を与えた。内向的ではあったが家庭的な母親で、庭いじりが好きであった。
2人の出会いはお見合いによる結婚。昌一は27歳、徳子は23歳であった。